メディア中毒はなかなか抑えられない。まだまだ根本を断ち切れていないようだ。どういった経緯で幼少期から脳内のテレビがつけっぱなしで、絶えずメディアを再生していたのか。
もっと過去にメスを入れてみよう。高校の倫理で、序盤にエリクソンが出てきた。青年期の話、モラトリアムの話、ときて「青年期には極端な悲嘆が伴うことがある。」と入ったあたりで怒られた時以外では初めて泣きそうになった覚えがある。自分の症状を分かってくれる人がいたと、初めて安心して泣きそうになった覚えがある。あの先生に、今から連絡先を貰えないだろうか。法に触れない程度に全力を尽くしてみる。
逆に言うと、高校までこのように精神的に深く関わってくれた現実の人間に会えなかったのだ。運もあるかもしれないが、私とてそりゃあないだろう、と訴える権利はある。何より深く関わってくれる人がいたら、脳の傾向だって早めに知ることも可能だった。私のような、心を通わせる人間が著しく少ないタイプの人間の研究は、どうやら現時点ではまだまだらしい。
上記のエリクソンは人生を通じた発達モデルを提唱した。詳細は省くが、私はそれに則ると人生に失敗しながら生きている。(もっとも、彼が生きた20世紀に発達の凸凹を配慮しろという方が無理があるが。)原因は深く関わってくれる人がいなかった部分が大きい。エリクソンのモデルは心を通わす人間を持つことを前提で作られている。私はイレギュラーなのだ。自力で人生を送るとどうしても非効率なのだ。
そこで架空の存在であるメディアのキャラクターたちを頼ったのだ。老人の杖のように。そして、彼らと過ごしすぎたのだ。何しろあまりにも生きるのが大変なものだから。起きろ私。気づけ私。2026年は、少なくともお前が訳もわからず叩かれる時代じゃない。
